三熊山は高熊山、乙熊山、虎熊山の3つの山からなっています。 三熊山にはくに指定史跡洲本城跡があり往時をしのぶ石垣が残っています。 山上には昭和3年に建てられた模擬天守閣があります。また三熊山は瀬戸内海国立公園に属し紀淡海峡を一望できる景色が素晴らしく、たくさんの貴重な植物も自生しています。
元禄八年、氷上・清住の谷から朽ちかけた七十体余りの仏像が発見された。 共通してお腹のふくらんだ独特の様式が見られること 未完成のものや、十六体もの兜跋毘沙門天があることなどから平安・鎌倉初期、ここに仏師の工房が存在したのではないかといわれている。 東大寺の古文書に「丹波講師快慶」という文字が記されていることも考え合わせるとその仏師たちの中に快慶が居た可能性もあるという。 戦国の世、明智光秀の丹波攻めの折り兵火を避けるため、仏像はひそかに僧侶たちの手で谷の奥深くへと運び出された。 そして、仏師の里は歴史から姿を消した。無心で木を彫る槌音がいにしえの山々に響いていたのだろうか。 仏像は真実を秘めたまま、静かに佇んでいる。
有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。 温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています。有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています。
釈日本紀によると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から2年後の大化3(647)年10月11日から大晦日環幸までの82日間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり滞在されたとの記述があります。
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