「延岡城」は、慶長8(1603)年、時の領主、高橋元種が銃火器を使用した近代戦に対応するため、また延岡の経済流通の拠点とするため、五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた丘陵地帯に築城された。銃火器戦に対応するため、壮大な石垣に囲まれた堅牢な構造であった。 建物は明治4(1871)年の破城令によって、ほとんどが取り壊されたが、 千人殺しを始めとする石垣等の遺構は今も大部分が健在であり、当時の面影を偲ばせる。
また、城山公園には、明治11(1878)年に太鼓櫓跡に鐘撞き堂を建て、それまで今山八幡宮で梵鐘として使用されていた鐘をそこに移して時鐘とした。 その鐘は、歴代の鐘守に守られながら、124年もの間延岡市民に時を告げ続け、「城山公園」は、延岡市民の憩いの場であり、心の拠所となっているのである。
千人殺しの石垣
北大手門の階段を上がったところにある、高さ22mという壮大な石垣で、この石垣は二の丸から本丸への侵入を防ぐためのもの。 礎石をはずすと、たちまち石垣が崩れ、千人の敵を殺すといわれたところから、この呼び名がつけられたと伝えられています。
また、「千人殺し」の石垣の前に広がる「二の丸広場」では、毎年10月の第2土曜日に、延岡藩最後の藩主、内藤家が代々引き継いできた非常に貴重な能面を使用し、「人間国宝」片山九郎右衛門氏を始めとする本邦随一の演者達によって舞われる「延岡城址 天下一薪能」が行なわれます。
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